神田小川町について

町名の由来

edo江戸時代、小川町(おがわまち)は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。

古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町(もとたかじょうまち)と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。

小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んでいます。

明治五年(1872)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。

明治の賑わい

meiji明治時代、この界隈には西洋料理店や牛肉鳥肉料理店、割烹料理店のほか、書店や洋品店、大弓場や寄席にビリヤード場、そして勧工場(百貨店の前身)で時計塔としても知られた南明館などが立ち並び、周辺の雉子町(きじちょう)、美土代町(みとしろちょう)、錦町(にしきちょう)、表神保町(おもてじんぼうちょう)などとともに東京を代表する繁華街として栄えました。

いっぽう、簿記学速記学速成教授所、天神真揚流柔術教授所、東京物理学校、私立鳥海女学校、英語、漢学、数学などを教える研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校など学校も多く、学生たちで賑わう街でもありました。

二丁目の幸徳稲荷神社は、稲葉家の屋敷神として祀られていたもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し、五穀豊穣と武運長久を祈願された由緒ある社です。また、三丁目の富士見坂の名は、坂の上から富士山が見えたことに由来します。

ゆかりの人物

一丁目には俳人正岡子規が勤めていた日本新聞社がありました。二丁目の東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公が学んだ学校です。三丁目に過ごした昭和期の小説家永井龍男は、文藝春秋社で雑誌編集長を務めたのち、後年には文化勲章を受章しています。

昭和の区画整理

oldtown大正十二年(1923)の関東大震災後、震災復興都市計画により、町の様子や町名も改変します。昭和八年(1933)、ここに小川町が誕生しました。さらに昭和二十二年(1947)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町となりました。

スポーツ店街

townこの界隈は学校が多かったため、明治のころより駿河台や神保町などとともに学生街として賑わっていました。昭和三十年代ごろからは学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が出店しはじめ、現在では東京のみならず日本屈指のスポーツ店街として多くの人々を集めています。

協力: 千代田区観光協会
町名由来板ガイド